前説
このたび『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』(Create Media編/dZERO刊)の
名古屋の講演会主催することになりました。
講演会の記事はこちら
主催をはじめたきっかけは前記事(名古屋でイベントを始めたきっかけ)をご参照いただきたいところですが、
今回は私自身の経験談を語ってみようと思います。
自身の被虐経験
幼少期のころ
熊本の片田舎で3人兄妹の真ん中として生まれ、資産的にはごく中流だったかと思います。
私自身が「あぁ、なんかいやだな」って思い始めたのは小2の夏休みの頃。
それまでも2つ上の兄とはよくケンカしていた思い出があります。
その度々で怒られるのは常に私でした。
これは記憶を掘り起こしても、兄が叱られてる場面はほぼ記憶がありません。
リモコンの取り合い、ゲームのこと、マンガ本のこと、些細な事でよく子供らしいケンカをしていました。
もちろん親から怒られるのも私。
小さな頃は押し入れの2段目に閉じ込められたり、夜に家の外に放り出されたり、
父親のひどく酔っぱらってるときは殴る蹴る投げ飛ばすなど直接手を出してきます。
幼心ながらに「なんで自分だけ殴られるんだろう。なぜ兄は何も言われないのだろう」と思っていました。
親を親と認識しなくなった時
小学校のときは夏休みのイベントで、毎朝ラジオ体操にいかなければなりませんでした。
小学校2年生のある日、
朝が苦手だった私はその時とてもぐずって「行きたくない!」と泣きわめいたのを覚えてます。
そしてあの父親が機嫌悪そうにやってきて首根っこを掴み、玄関までひきずっていき、外の地面に叩きつけるように投げ捨てました。
家の前はアスファルトで、もちろん整備されてないのでボコボコでマジックテープのような表面になってたりします。
打撲よりも擦り傷がひどく、ヒジと膝の皮がめくれ、傷口にコンクリの砂利が埋まってる状態。
足の親指もひどくめくれていました。
傷口はすぐに膿み始めて、血の赤よりも黄色い傷口という印象が大きいです。
そしてあのゴミを見るような目で去っていく父親。
痛みに泣きわめいたのか、恐怖に怯えていたのか、声も出ないほどだったのか、もう覚えてはいません。
それからは母親に連れられて車で病院通いの日々でした。
「なんでこんなことされるんだろう」「どうして自分だけ」
考えれば考えるほど深みにはまっていき
「本当の子供じゃないからあいつは殴るんだ」
そう思うようになるまで、そんなに日は経ちませんでした。
家を出るまで憎しみの日々
数日置きだったか、毎週だったのか、幼いころはそれはもう頻繁に暴力を受けてきました。
酔っ払って帰ってきた日は特にひどく、父親の気が済むまで体をまるめてじっと我慢していました。
30分だったか、幼い自分の体感時間だと1時間くらいのようにも感じましたが。
顔や腕、足などの目立つ場所はやられなかったように思います。
今思えば、ばれないようにしてたのかもしれません。
外面がよく交友関係もあるようで、近所の集いや仕事関係の人、また親戚の集まりで笑ってる父親は反吐が出るほどキライでした。
鬼のような形相で、
「のぼすんな(調子にのるな)」「親にむかって」「食わせてもらってるくせに」
とひたすら蹴り続けるアレが、何もなかったかのように笑ってるところがとてもキライでした。
そしてそいつに酒を飲ませる周りの、父親の同僚が、知人という大人が、全てが嫌いでした。
この頃から「友人と呼べるものが仕事の付き合いしかない大人、になんてなりたくない」と強く思うようになりました。
次第に「あんなの親じゃない」から「殺してやりたい」と思うようになったのが小4くらいだったというのも覚えています。
おかげさまで10歳から18歳までの家を出るまでの間、憎しみ続ける日々を送ることになります。
殺されるかと思った
学校で彫刻刀を使う授業がでてきました。
それからだったと思います。彫刻刀やナイフ、カッターを常に隠し持っていたのは。
中二病的に「かっこいい」という部分もあったかと思いますが、それ以上に無意識に護身用として身につけていました。
夕食時にいつもの暴力がはじまり、ふとしたときに護身用の彫刻刀が見つかった時があります。
すると、いつにも増してひどく醜い顔を向けられ、同じように彫刻刀を持ち出してきて「お前も同じ目にあわせてやろうか」と。
ぎりぎり直接傷つけられることは避けれましたが、
それからもナイフ、タバコの火、画鋲など色々と脅されました。
包丁を抜き出して脅された時は本当に殺されるのかと思いました。
母親が止めてくれなければ、あるいはあの時母親が出かけてたら、きっと死んでたかもしれません。
止めてくれたのはいつも母親だったが
包丁事件の時もですが、たびたび度が過ぎる時は母親が静止に入ることが多かったようにも思います。
ある時に居間でいつものように暴力を受けていると、まだ幼かった妹が「いじめないで!」とかばってくれたこともありました。
彼女は小学校入る前だったのでもう覚えてもないと思いますが、私は救われたように思いました。
私は母親と妹だけには、今も感謝しています。
妹が止めたからだったのか、私の体が大きくなってきたからか、年を追う毎に次第に暴力の回数は減っていきました。
それでも毎年何かしらはありましたが。
最後通告は無言で
それからも色々とありましたが、高校を中退し、大検を取得。
短期でバイトを経験し、不思議と名古屋の専門学校に進学が決まってしばらくするとある事件がおこりました。
昼間にインターネットをしていると、何を勘違いしたかあの暴力父がやってきて、首根っこを掴み壁際に押し付け、
「お前のせいで家族がおかしくなったんだ」「お前のせいでぼろぼろだ」
そう言われて怒り狂うのでなく、自然と気持ちが澄んでいきました。
言ってはいけないことを言ったのだと思います。
ああ、こいつはほんとうにかわいそうなやつなんだと。
そして決して赦してはいけない人間なんだと。
私が涙を流していたのを、許しを請うていたのだと勘違いしていたようですが、
こんな愚かな人間に、こんなにも自分を犠牲にしていたことが、とても虚しかったのです。
いつか殴ろう、いつか仕返しをしよう、でも同じ人間になりたくないから絶対に手をあげない。
ずっとそんな葛藤に苦しんでましたが、こう言われて結局
「こんな人間のクズみたいなやつ殴ってもしょうがないな」
と自分の気持ちに決着。
あいつは私のせいで、とは言うけれど、毎回「シツケ」と称して実際に殴ったり蹴ったりしてきたのはあちらの方。
こちらは既に関わりをもたなくなって空気のように接していました。
文字通り、会話もなく、互いにいてもいないように振る舞い、極力同じ空間にいることを避けた。
たまに癇癪を起こした時に殴りに来るだけ。
そんな乾いた日々でした。
今思い返せば色々と思い当たる節がある
小学校までのこと
小学校はだいぶ元気すぎた。むしろやんちゃが過ぎるほどでした。
クラスの誰とも友達になれるような、なんとなく自然とそうなってたように思います。
友達とも普通に接していた、と思います。
本当は私のことが苦手だった子もいたかもしれませんが…。
中学から
中学にあがったころから極端に人と関わりたくなくなりました。
誰かにいじめられたわけじゃなく、むしろ仲のいいクラスメイトは多かったのですが。
友人の家に遊びにいくことも多かったですが、不登校も増えました。
ただ、なんとなくいきたくなかった。
学校そのものがおもしろくなかった。
学校に行かない間はゲームや漫画で時間を潰すこともありましたが、その実、一人で勉強していました。
ネットに触れるようになってからは、どっぷりネットにはまりました。
年間で1ヶ月や2ヶ月ほど欠席していたはずですが、成績はさほど悪くなかったように思います。
得意科目では上位の友人と点数を競うほどには。
だからこそ周りの大人たちも持て余してたのかもしれません。
高校では
高校は県境を超えて私立の進学クラスに。
朝6時に通学バスに乗り、30分ほどの車内で単語を覚え、0限が始まるまで予習。
1~6か7限?くらいまでみっちり勉強し、放課後も18時のバスが出るまで復習か宿題をやる。
家に帰って食事・入浴を済ませるとテレビを見れる時間は30分程度。多くて2時間。
あとは深夜2時頃まで勉強。就寝。
朝起きるのは5時半頃。
自宅学習が週40時間を義務付けられていたので、ほぼそういう生活をしていました。
若く体力があったとはいえ、社畜の前準備のようだなぁと今では思います。
ブラック企業に努めてた時間とあんまり変わらない…。
元々独学に近い勉強をしてたからか、しかも進学クラスだから授業スピードも早くついていくことも難しくなり、より不登校が増えました。
そうなるとひたすらに「おもしろくない」と感じることが増えました。
逆に、
ネットでの知らない知識、知らない人たちと話すだけでワクワクしていきました。
相手が男か女か、または大人か子供か分からなくても、まったく問題はなく。
それでもなんとか、学校いってない間も勉強はしてみたけど、やはりおもしろくない。
次第に、自分でホームページを作ったり、画像加工したり、小説をかいてみたり、
何よりオンラインゲームにどっぷり浸かり
ネットの繋がりの方が密になっていきました。
学校にいっても「良い大学にいって、良い就職する」を目的にするクラスメイトしかいなかったのだから。
教養はあるので高校ではいい子たちばかりでしたけど。それも逆に当時はしんどかったのかもしれませんが。
思い返せば
小中高と、友達付き合いは問題なく装えてました。
おそらく地元の友人の誰も「家庭に問題がある」とは思わなかったでしょう。
むしろ相談されたり頼られることもままありました。
中学で不登校がふえたのも、今思えばおそらく心のバランスが崩れてきていたからだと思います。
友人の前では普通に振る舞ってても、日常がひどくつまらなく、また家に帰れば「気に入らない」という理由で殴られるのだろうと。
自分では平気だと思っていました。
それが当たり前だと思っていたけれど。
感受性の強い時期だから、きっと知らないうちに蝕まれていたのかもしれません。
そして家を出た
二度と、この家の敷居は踏むまいと心に誓って。
父親が死んでも決して葬儀には出ないと誓って。
決して悟られないよう、気づかれないよう。
殴らず、言わず、気づかれず。
あいつは私のことを「何も知らない」まま死ぬのだろう。
後日、引っ越し手伝いを終えた母と食事してたときになんとなく
そういえば殴られてたの自分だけだったけど、と話を振ったら
「反抗的な目だったから、ついカッとなったらしい」と冗談まがいに言われました。
なんだそれと冗談めかしてその場は終わりましたが、ただただ虚無感だけがありました。
「のぼせるな」と口癖のように罵声を浴びせられたことが鮮明に思い出せる。
傷を負って病院通いにもなったよね、と話したときも「本人は謝ったって言ってるから」なんて言われました。
私はあいつから、生涯の一度も謝罪を聞いたことはありませんでした。
もう、二度と関わることはないだろう。
それで私の気持ちは区切りをつけました。
これが私の体験談です。
決して同じように苦しむ人が増えてほしくない。
決して自分が同じようにならないように。
今回の「日本一醜い親への手紙」に応募はしませんでしたが、
少しでも人に優しくありたいと思っています。
◆ 名古屋 イベント概要 ◆(※終了しました)
====================日時:2017年 10/29(日)
開場:18:30~ 開始:19:00-21:00
場所:シアターカフェ(定員 20席)
料金:1500円(別途1ドリンクオーダー必須500円)
講師:今一生氏(@conisshow)
※お支払は当日、開場前に受付致します。
※希望者は講演後のオフ会有り
====================
その他詳細については下記より
講演会のお知らせ Nagoya AC2017
A4チラシ PDF
講演会 昼の部もあります
主催:丸善名古屋本店さんにて、「親からの虐待被害者の声に耳を傾ける大きな意味」
が開催されます。
「夜は遅くなるので行けない…」という方はぜひこちらにご参加ください。
今一生講演会 昼の部
ご予約・お問い合わせ
ご予約、お問合せはinfo@asairo.comまでお名前と年齢をご記入の上、お送りください。
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後援・協賛の募集
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サポート購入・寄付のお願い
親から虐待された100名が書いた本『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』(Create Media編/dZERO刊/1800円+税)が、完成!10月2日に全国各書店にて販売!
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サポート購入・寄付のお願い 【今一生さんブログ】
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